寛容でありたいと願う人たちは、不寛容な人たちに対して、不寛容になってよいのだろうか、という意味です。
■不寛容な権力者
いま、世の中は不寛容な方向に走り出していると感じます。安倍晋三首相、トランプ大統領、金正恩総書記…。いずれも自らを批判する人たちに対して不寛容です。
都知事選で「内閣総理大臣」として紹介された安倍晋三氏は、「辞めろ」などのコールに「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫びました。
まだ米国では、与党議員やメディアから批判が噴出していますが、北朝鮮は批判を許さない体制を完備しています。そして、日本もその道を歩みつつあるように見えます。政権を批判した釜山総領事や沖縄総合事務局の職員は処分されました。国会で政権を守るために無茶苦茶な答弁を続けた財務省幹部は出世したのに。
批判者を排除しようという動きは、安倍氏を応援する民衆にも広がっています。安倍氏への批判に対して「反日」「売国奴」「中国人」「朝鮮人」というレッテルを貼ります。もちろん国籍なんて調べているわけがなく、単なる中傷です。今上天皇に対してすら「反日」と言います。
民主党政権はもちろん、それ以前の自民党政権でも、必ず批判者はいました。当たり前です。しかし、それが「反日」「売国奴」などと言われたことはありません。安倍政権でのみ、批判者は「反日」と位置づけられる。つまり安倍氏を擁護する人たちの思考回路は、「安倍晋三=日本」。そして「批判する者は日本人ではない」となります。大変な排他主義です。
■弱い寛容
では、不寛容な安倍一派に対して、寛容を掲げる人たちはどうするべきなのでしょう。「寛容じゃなきゃだめじゃないか」と転向を迫ればいいのでしょうか。それでダメなら「おまえらこそ国賊だ」と排他すればいいのでしょうか。
しかし、「自分たちの考え方に染まれ、それ以外は認めない」という考え方に至った時点で、安倍一派と同じ排他主義になってしまいます。「おまえらも不寛容じゃねえか」「ブーメランwww」ということになります。
不寛容に対して不寛容な対応では怨嗟のループに陥ってしまいます。
じゃあ何もせず全てを受け入れていればいいのかというと、それは弱腰という反発を受けます。領土問題がいい例です。中国の海洋進出や韓国の竹島ライン、ロシアとの北方領土問題に対して「寛容」でいれば、国内の反対は激化するでしょう。
寛容というのは、強要するわけにはいかず、貫徹するのも難しい、非常に困難な考え方です。寛容であろうと決めたが最後、構造的に弱い立場に置かれます。
■寛容が進化だと信じた渡辺一夫
答えは「寛容が不寛容に対して不寛容たるべきではない」でした。16世紀の宗教戦争は、不寛容同士の争いが激化し、結果として欧州では知識の進歩が止まってしまいました。そこからルネサンス期で再び寛容が芽吹き、文化社会の発展につながります。
寛容とは弱く、忍耐を必要とするので辛いものです。半面、不寛容は手っ取り早く、楽です。腹が立ったら中傷すればいい。手を上げればいい。戦争のほうが、平和より楽だというように。
しかし、価値観が異なる人たちを打ち負かそうという不寛容では人類は発展しない。宗教戦争の時代に、人類が退廃したように。寛容なくして人類の発展はありません。最近の企業文化では「多様性」とか「ダイバーシティ」とか言われますね。多様性を認めて異なる価値観のぶつかり合うことで、アウフヘーベン(止揚)し、イノベーションにつながるわけです。その意味で寛容は不寛容に勝ります。
渡辺一夫は論考の中で、二つの米連邦最高裁の判決文を引用しています。一つは1929年にオリヴァー・ホームズ裁判官が出した「われわれの憎む思想のためにも自由を与えることが大事である」。もう一つはロバート・ジャクソン裁判官の「自由とは、現存制度の核心に触れるような事柄について、異なった意見を持ちうるかどうかにかかっている」。
■不寛容を抱きしめて
私なりの答えは、「抱きしめてあげる」です。もちろん物理的には難しいですが、心の中ででも。
考え方のコツですが、不寛容というのは、立腹したら発露するという原始的な人たち。寛容という一段の高みに達することができなかった人たち。敵をつくらなければ生きていけない心の貧しい人でもあります。そう考えれば「かわいそうな人よ」と心の中で抱きしめてあげることができるのではないでしょうか。
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